Qすれば通ず

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早稲田大学理工学部・概念工学科シラバス 第1章 第1節 第3~4項 〜基本法則は思想か?〜

 こんにちは。きゅーです。卒論の最終発表も終わり、卒業旅行やその他イベントの予定もひとしきり立て終わったところです。バイトがやたら忙しいですが、まあ先立つものがないといろいろと始まらんので頑張っている次第です。スノボ、2回ぐらいいきたいね…。欲を言えば旅行は3回はいきたいよね…。

 さて、前回の更新からずいぶん空いてしまいましたが更新します。う〜ん、僕の記事、一つ一つがやたら長いし、内容はよくわからないし、読みづらいと思いますね…。気づいちゃったよ。そして僕自身のモチベがめっちゃ落ちている。正直哲学の話なんかやめて、漫画や小説のレビューとか批評文とか書きたいんだけど。わたモテの吉田さんがかわいい話とかしたいんだけど。わたモテの吉田さんがかわいい話とかしたいんだけど!!

 しかし、章立てでドドンとやると言った以上、途中で投げるのもどうかと思いますし、もしここで終わってしまうならば、この一連の文章は、読み物としてまったく閉じておらん!なので、もうちょっと頑張ります。読んでね。

 今回の記事は、前回に引き続き「哲学は思想ではない」ということについてお話ししていきたいと思います。理系の人向けだってことを僕が思い出す感じで書いています。

 前の記事はこちらになります。復習をしていただければと思います。↓↓

ohakyu0310.hatenablog.com

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イバラギンは俺の嫁

 

1-1-3 哲学できなくたって困らないし、知識が要らないとは思わんし…

 注意してほしいことは、「哲学をしていない」という(ように人から言われる)ことは、その人にとってなんらのマイナスになることはない、ということです。たしかに、哲学的に考えるためには、あるかたちのセンス──それは世界内の事物に対する“嗅覚”とでも表現されるような、ひじょうに原初的な、そして“子供的”なものであります──が要求されるように思われます。しかし、そのような嗅覚がなくたって、生きてゆくのにさしさわりはありません。

 前世で悪魔と契約し、今世でプロピアニスト以外の職業に就いた場合に魂を取られてしまうという人について、彼にピアノの才能がないことは不幸なことですね。しかし、大半の人はそんな契約はしていないでしょう。人生において「ピアノができないこと」はその人を殺さない場合がほとんどであるわけです。大半の人々にとって、ピアノを弾くことは「それが好きな人が、上手にできたら楽しい」というたぐいのものでしょう。《哲学的に考えることができる》というのも、これに準じたものであるように思われます。つまり、知識の集積や、それを「疑わず受け入れること」じたいは、それはそれで有用であるわけです。ただ、そのようなものは哲学的態度というものではないよ、そして、そのような態度を持っていないからといって、蔑まれたり、学問に不適な人だと決めつけられたりするということはまったくないよ、ということが、本節において示されるべきことであったのです。

 さらに申し上げておきたいことは、哲学の営みにおいて、知識じたいは非常に大事なものである、ということです。ものごとを徹底的に疑い、それを精緻に言葉にするということは、たしかに哲学においてはそれだけで掛け値なしに大事なことであるのですが、「誰が何を言ったか」を知っていることがその営みの助けになる、ということもまたたしかであります。第1-1-2項にて軽くご説明しましたが、アカデミーにて実質的な研究をするには、こうした「哲学者の言質」をたくさんとっている必要があります。論文を出すならなおさらです。しかし、そうして手に入れた知識を、ただ人に話しているかぎりでは、それは哲学をしているということにはならない、ということです。

1-1-4 第2章へのフライング:基本法則は思想か?

 …なんだか読者のみなさんを置いてけぼりにしているような気がしてきました。本記事の狙いは《理系のみなさんに哲学(とりわけ、哲学的に考えるとはどのようなことか)を紹介する》ということでした。聞こえてきます、聞こえてきます…「ニーチェなんか知らないよ!」。その批判はまったく正しい。文系の専売特許みたいな知識だけで語り出したら、それはけっきょく我々の土台の押しつけになってしまうわけです。いかにも含みのあるそぶりで威厳たっぷりに「神は死んだ」と口で言うだけなら、それは非常に簡単なことであるわけですから(そして第1-1-1項では、それを口で言うだけでなく、徹底的に疑って問いなおす、ということが哲学の営みであると申し上げたわけですから)、ここで少なくとも、みなさんの理解を助けるべく、なんらかのしかたで「“理系的諸概念”の概念性」について語っておくのは必要なことであるように思われます。

 哲学の中心課題は、心とか、意味とか、道徳とか、目に見えないものばかりです。そういったものを扱う以上、たしかに理系諸学問と相容れない部分があるようにも思われます(そして、そんなものを扱っているだけで、なんか何についてもなんとでも言えそうな言葉遊び感があるよね、という批判もありそうです)。しかし、我々の知的営みが真に「学」であり、それが「概念工学」であるならば、「哲学という領域においては、理系的知識はしかじかのように位置づけられている」ということはきっちり示されてしかるべきであります(だって工学だもんね!そして「概念工学」の取り組みのおもしろいところは、心とか、意味とか、道徳といった“目に見えないもの”を物理世界にレンダリング*1する、というところにあります。大事なところですが、これについては後述)。

 この目論見が達成されるためには、数学や物理学における基本定理や基本法則について言及しておく必要があるように思われました。その手段として、数学や物理学における基本定理や基本法則は思想であるのか?それとも否か?という問題について扱ってみる、というのがよいものであるように思われます。哲学研究において扱われるものについては第2章「哲学をするとは」にて詳細に書きますが、ここでちょっとだけフライングをしますね。

 (…書いてて思ったんだけど、この項を書くとか書かないとか以前にそもそもニーチェの話とか最初にしちゃうの完全に失敗だっただろ。本記事の目的は全体をつうじて「哲学するとはどういうことか」を示すことだし、その取り決め上、想定読者は「そういったことをよく知らない人(目論見上それは理系のみなさんである)」になるはずだけど、そういった人に対していきなり哲学者の言葉でもって例を与えるのは、無策にもほどがあるだろう。この記事みたいに頭からニーチェの話をされてサクサクわかっちゃうような人は、もうそこそこ哲学のなんたるかを知っている人であるわけなんだよな。僕は気づいた。マ〜ジでごめんなさい。というわけで、この項は理系のみなさんに対する私の真摯なエクスキュースです。頑張って書いたので、その誠実さをもって反省の態度と認めておくれ…。)

 哲学においては、たとえばニュートン運動方程式は次のように疑われます:ニュートン運動方程式 ma=F*2 は、ニュートンの観察によって打ち立てられた法則であるが、これは有限回の物理実験で確かめられた帰納的なものである。ところで、たとえば、毎朝必ず7時に起きている人について、その人が次の日も必ず7時に起きるということを保証するような“因果的性質”は、物理世界の側には認められない。この人が7時に起きるという事実は、誰かの観察によって有限回の確認が得られただけの帰納的なことがらであるし、彼が毎日必ず7時に起きるということを、ある種の法則として理解することは、さすがに法外なことであるように思われる。

 さて、ニュートン運動方程式によって説明が可能であるような物理現象についても、先の7時に起きる人の確認可能な生活習慣と同様、それは帰納的なものであるように思われる。なぜならば、落体の運動の様子や電車がブレーキをかけたときの挙動などは、有限回の観察をもって確認されたものであるにすぎないからである。それならば、ニュートン運動方程式によって説明されるような物体の運動についても──この早起きルーティーンの人の起床時間について、それに法則性や因果性といったものが認められないのと同様に──その法則性や因果性というものは認められないものであるのではないか。すなわち、物体が加速度を持っているということと、物体に力が加わっていることとは、因果的な結びつきを持っているものではない、ということになってしまうように思われる。

 本題に入りましょう。本項において問われることは「基本法則は思想であるか」というものでありました。たとえばみなさん、私がこのニュートン運動方程式を「ニュートン思想」とか呼びだしたら、それはもうブチギレますね。このことは火を見るより明らかであります。なぜならば、ニュートン運動方程式は、《それが実際に成り立っている》ということがじつにもっともらしいものであるからです。量子力学の世界ではこの限りではないようですが、この方程式が、理系分野における他のあまたの学問的な手立てを構築し、かつそれらと連携し、その科学的発展を誠実に助けてきたものであるということは間違いありません。じじつ、我々のスマホは適切に挙動しているではないか!先ほどのようなよくわからん懐疑にさらされることはあっても、それは概念遊びによって変なチャチャを入れられた、というようにしか受けとれないよ。基本法則とは、このようなしかたで我々の前に立ち現れてくる「世界の真理」的なものであるように思われます。

  しかし、先の例を見直してほしいのですが、ニュートン運動方程式は、じつにもっともらしいしかたで疑われているように思われます。というのも、およそすべての現象とは、帰納的な操作をすることによってでしか、それに対してなんらかの説明を与えることができないからです。電子って実在するの?するに決まってんじゃん!いや、だって電子って肉眼でみえないじゃん、ほんとにあるの?あるに決まってるわ!特殊な顕微鏡で観測できんだよ!でもそれって有限回の観測でしか確かめられていないことだよね。そうだけどそれがどうしたの?これまで世界で行われた電子の観測の機会すべてにおいて、顕微鏡がたまたま誤作動を起こしていて、たまたまレンズに「電子っぽい変な粒(ただのゴミとかかもしれない)」が映し出されてるだけだったら?いや、そんなことあるわけないでしょ。どうしてないと言いきれるの?それは…。

 

 

…長いから次回にしていい?

*1:英rendering。表現、翻訳、上演などと訳される。ひえ〜〜っ、すんばらしい。「概念工学」の企てを指し示す表現としてこれ以上に的確なものはあるか。ある抽象的な高次の情報について、それがレンダリング後に音声やイラストとしてキレイなものになるかどうかは、その前段階のこねくり回しと、レンダリング後のイメージとが重要になるわけだ。たとえばコンピュータ音楽なら、ある曲のトラックを作曲ソフトからwavファイルに書き出すときは左右寄りの音が大きくなる傾向にあるから、センターの音像を強調してミックスして…てなぐあいに。これと同じく、「意味」を物理世界にキレイにレンダーしたかったら、そもそもまず「意味」という概念について事前に徹底的にさばいておかなければならない。我々が《意味する》とか《意味がある》というときはどんなときか…。そしてそれを物理世界に書き出したいならば、物理世界の特質についてもよく理解しておく必要がある。この生物のこの振舞いは「意味のある運動」か?う〜ん…といったぐあいに。おっ、なんだか創作と哲学とをパラレルなしかたで語れたような気がしてきたぞ。うれしいぞ。この言葉を知ることができたのも、ひとえに私の周りにいてくれる創作界隈のみなさんのおかげです。本当に感謝。

*2:こっちでいいんだっけ? F=ma って書くといろんな人に怒られるような気がした。