Qすれば通ず

https://twitter.com/oharaQnyanの思索が書かれるよ

早稲田大学理工学部・概念工学科シラバス〜哲学ってなんぞや?〜

 いやあ、年末ですなあ。家族はしめやかに早帰り、居間のテレビには「Mステスペシャルスーパーライブ2018」が煌々と輝き、青山テルマ氏はにこやかに歌っておられるわけです。さて私はといえば先日、学部生対象の公募用の論文をなんとか終わらせ、つかの間の暇を享受している次第であります。知る人ぞ知る言論メーカー、全裸で奏でる作曲家、馬場で暴れる哲学屋、きゅーにてございます。こんにちは。

 さて、前置きはこのへんにしまして、本日の記事についてご紹介いたします。本日取り扱いたいのはズバリ「哲学とは何か?」というものです。

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ワダアルコは神

 

はじめに

 今日(いや、昔もかもしれんけど)、哲学という言葉はじつに様々な文脈において、そしてじつに様々な意味において使われているように思われるわけです。たとえばTwitterに散見される「哲学」というワードを手近に拾い上げても、じつにその多様さがうかがえます:「経営哲学」「ももクロの非常識哲学」「かわいいとは(哲学)」「リア充(ネット)ってなんだよ(哲学)」「うるセーーーックス!!なーにが論理哲学論考*1!こちとらおしり出す出す本舗!」などなど。さて、こうしたツイートに関して、これを述べた人々は実際のところ哲学という言葉でもって何ごとかを指し示しているのか、そこにおいてなされているような哲学的理解とはいかなるものであるのか、ということは、じつはあんまり明らかなものではないのではないか、というように思われます。しかし、そのツイートにおいて問われているものごとが何であるのか、ということはなんとなくわかるし、「(哲学)」のようなツイートが我々の理解においてある程度は“許される”ということもまた妥当であるように思われます。いや「リア充(ネット)」ってなんだよな。ほんとにな。ふざけんのも大概にしろよな。

 また、実際に一学生としての仕方で──講義をとって、専攻しているお友達から聞きかじったりして、あるいは自分でちょっと気になって本などを手にとってみて──哲学という言葉を摂取したという方も多いと思われます。山積みになった議論の束を、やたら楽しそうな教授からもらい、それをなんとなく試験に書いたあとでも、ウーンなんなんだこれと釈然としない感覚が残ったような、あるいはまったく残ってないような。よく聞くしたまに使うけど詳細は知らない、いつか勉強したいと思うけど、まあわからなさそうだよね、そんな感じ。

 そして、そのような哲学に対する「ボンヤリ感」を最も色濃くその身に宿しているのは他でもない、まさに我々の学問と対極にあるような世界で勉強を進めていると思しき、理系のみなさんなのではないでしょうか。哲学ってなんなの?うちの学部でもいちおう講義あるけど、これって要るの?高校で倫理は勉強したけど、やってることはただの思想遊びじゃないの?そんな問いにつきまとわれつつ、単位のためと一夜漬け、レジュメをヒイコラ暗記して、とりあえず書いてハイ終わり、という具合で哲学(およびそれに関係するような学問)の講義に臨んでいらしたのではないでしょうか。

 そんな哲学という言葉にモヤモヤしている、あるいはちょっと知ってて一家言ある、学び豊かな諸兄諸姉にむけて、わたくしはここに「哲学入門」を記したいと思います。特に「理系のための哲学入門」でございます。君たちは何をやっているの?どんな問題があって、それにどのように答えたら嬉しいことになるの?あれは哲学?これは哲学?いろいろあったけど、けっきょく哲学ってどういう学問なの?そういった問いに正対し、なるべく精緻に語り尽くして答えを出す、それが本記事の目的であるわけです。オオ、なんだかおこがましいな。

 しかし、私はこの記事が有意義なものであるということを疑いません(ウソですウソをつきました*2、そんなこわいことはできませんが、文物というものは、そう書いといたほうがおもしろいような書き方があるのですよ。よく知らんケド)。「哲学というものを理系のみなさんに紹介する」という、この大仰な語り出しが可能であるのは、ひとえに私が理系出身の哲学屋である、という事実がその理由としてあげられるように思われます。みなさんが何を学ばんとしているのかはおぼろげながらわかるし、理系学問における理系的思考(そんなものがあるのかはわからないが…)およびその態度についてもそれなりに理解し、それを一つの基地としてこの記事を執筆しているつもりです(古典物理と集合論の初歩、学部1年の化学基礎くらいならなんとかわかるよ!アハハ!)。そして、このことは逆に「私の話は空理空論を弄ぶ有象無象の思想遊びではなく、かつ私にはある一つの[学]を、みなさんに対して精確に紹介しようとする意志と準備とがあるのだ」ということを、みなさんに信用してもらうためのよい材料になるものとも思われます。そのような私の、理系のみなさんに対する、(少なくとも文面上は)真摯かつ挑戦的な態度の表明と、哲学という学問の性質に関するイントロダクションとを兼ねまして、本記事のタイトルを「早稲田大学理工学部・概念工学科シラバス」といたしました。つまり哲学って「概念工学」的な側面があるってこと?うんうん、哲学をそのように捉えることは、ひじょうに有意義なことであると私は考えております。このへんの詳しい話は本編にて明らかとなりましょう。この見方は、私の哲学研究の態度に通底するものであり、本記事を読み進めるうえでのメルクマールにもなります。それでもって、理系のみなさんがなさっていることと哲学の研究とは、そんなに離れているわけでもないんだよ、ということを、私なりに示していく、ということが、本記事の狙いであるわけです(だって工学だもんね!)。…それって別にシラバスじゃなくない?ごめん。これについては申し開きもできない。ほかにいい書き方が思いつかんかった。あとおまえ早稲田なの?なんで早稲田大学限定なの?ううん、ごめん。少なくともこの記事は、さしあたり内輪向けに書いてる…。

 それでは(長かったね)、本編の構成について紹介したいと思います。以下の3つに大別されます:

 

 1. 哲学でないものとは

 2. 哲学をするとは

 3. 哲学をする人とは

 

 この筆者、読ませる気あるのか?こんな簡潔な章タイトルだけで何が語られるかわかったら苦労しないわ。それをなんとか補うためにそれぞれの章に節と項をつけます、許して…。また、もっと哲学について知りたい、という方にむけて「オススメ哲学本」の項目を設けます。僭越ながら私の簡単なコメントとともに、哲学に関する書籍を(どのくらい勧めるかはさておいて)紹介していきますので、よろしければぜひご活用ください。諸兄諸姉の理解の助けとなるように、簡単な哲学用語の紹介も一緒に載せるようにします。それでは、次回の更新にご期待ください。いやここで書かねえのかよ。ごめん、長くなりすぎて1つの記事にするのはやばいと思った。あと書き出したらやたらやること増えてって推敲が間に合ってない。どうでもいいけど、はてなブログって使い勝手悪ッ。

ついでに

 …ここにおいて書かれることは、ひじょうに基礎的な哲学の話です。ひるがえって言えば、かりに以降の記事の内容がすべて正しいならば*3文系の人はすらすら読み飛ばせるということです。人によってはまったく得るものがなく、こんなの全部当たり前じゃん、となるかもしれません。そのような文章になるためには、この記事は、現在大学で哲学をちゃんと研究している人からはなるべく批判されないように、相当に説得的なしかたで書かれねばなりません。ふにゅ〜、わたし不安ですぅ…。またまたひるがえって言えば…「我こそは哲学をやっているぞ!」と思っている文系の方で、ここに書いてあることがまったく理解できない、否定したくなる、あざ笑いたくなる、きゅーさんにTwitterでマウントを取りたくなってくる…といった症状が出ましたらお気をつけください。あなたのなさっているものが哲学ではないという可能性がございます。有象無象の哲学っぽいものを称揚し悦に入るというおそろしい病に罹っているのかもしれません。集団感染の危険もございます。上記の症状にご自覚がおありでしたら、直ちにきゅーに相談するか、フランスから一時帰国するかのいずれかの処置をおとりになってください。もっとも、私の無理解または筆致のせいで、実際にこの記事の内容に不備が出ている、という可能性もまた免れません。そんなときは、やさし〜く批判してあげてください。

 どういう因果のあってか本記事をたまたま読んでしまったような、哲学の関係者諸氏に申し上げておきたいことは、本記事は基本的には「哲学的態度」について書かれている、ということであります。もちろん「哲学の研究」についてもなるべく書きますが、この二つはきっと明確に区別されますね。これを詳しく言いますと、筆者は、《世界のあり方のしかじかについて私が心の底から悩むッ!》ということは《科学論文を書いて出す》ということと基本的には区別されるものである、ということを認識している、ということであり、これはおそらく先に言っておくべきことであるように思われました。

*1:哲学者L.ウィトゲンシュタインの著作。特にこれを書いた時期の彼は、のちの著作に読み取れるような思想転換期の彼と区別されて「前期ウィトゲンシュタイン」とよばれる。この手の本は「◯◯について書かれたものである」といったかたちで紹介するのがひじょうに難しいものなのだが(そしてこれを書いた前期ウィトゲンシュタイン本人は「これは哲学の全問題を扱った本だ!」などと頑として譲らないのだろうが…)、端的にいうとこの本は言語(とくに命題とか、事実とか、そして「神」とか「道徳」とかの“目に見えない対象”とか)に関する「限界設定」の書である。ある文章が有意味であるのはこういう場合であって、こういうときのこういう場合、あるいはこういったものは言語では表せないよね、といった問題がつらつら書いてある。詳しくは当の本を読むか、「オススメ哲学本」にある、永井均ウィトゲンシュタイン入門』を読むといいわよ〜ん。

*2:フジ隊長のラジオはメキシカ〜ン!

*3:正しさについて一言ありそうな哲学研究者の顔がうかんだので加えると、哲学的意味において、こんな仮定はまず不可能である。この記事がぜんぶモダス・ポネンスで書かれてるなら別だけど。「イヤ、前期ウィトゲンシュタインにおいてはモダス・ポネンスの正当性も、ひいては論理それじたいも疑われているぞ!」みたいな批判はマジでやめてください。こわいです。「説得的」とかぐらいに読み替えといてくださいな。