Qすれば通ず

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早稲田大学理工学部・概念工学科シラバス 第1章 第1節 第1・2項 〜哲学は思想ではない〜

 うはは、あけましておめでとうございます。2019年の開幕であります。昨年はいろんなことがありました。先日はクリスマスもありましたなあ。街は賑わい木は彩られ、人は手つなぎ夜を歩いたわけですなあ。この命題が真であるならば、私は人ではなかった。こんにちは、きゅーです。ふざけんなハゲ。

 悪態をつくのはこのくらいにして(ほんとうに、それはもうほんとうにみっともないことなので)、本記事の紹介です。本当にお待たせいたしました。先日申し上げました、「哲学でないもの」を挙げていく作業です。哲学と他学問との「境界づけ」とでも申しましょうか。

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れんちょんかわいいよおおお

 

 1. 哲学でないものとは

 哲学とは何かを話し始めるのに、いきなり哲学以外について扱うの〜〜!?いえいえ、これは大事な作業なんです。というのも、おそらくみなさんのうちのほとんどの方は、哲学という領域で扱われることについて、なんらかの“誤解”を持っていることと思われるからです。より詳細にいえば、みなさんは「哲学的に考えること、および哲学における研究的所作」と「“文系がやってそうな、思想的なもの”に関するその他の所作」とを混同している可能性がある、ということです。これを区別できないことには、そのあとの話が一切無意味なものになります。ですので、まずはこの「洗い出し作業」から執り行いたいと思います。私の指導教員は「Aであることは何ごとか、ということについて明瞭でないときは、非Aを列挙してみれば見通しがよくなる」と言っておりました。うはは、典型的な分析哲学の一味ですね彼は。 

 分析哲学という用語については超絶後述。この節では、哲学でないもの、とりわけ「一見哲学的なものであるように思われるが、そうでないもの」をあげていき、まずはみなさんの“誤解”を解消したいと思います。この「そうでないもの」とは「哲学以外の“文系的”所作」であります。ここにあげられたものを見て「ウワッそれ哲学の一部だと思ってたわ」とドンドンなっていただけたら幸いです。そして、じゃあ哲学ってなんなの?という問いのある、次の章への足がかりとしていただければと思います。本章は以下の節に分かれており、本記事では第1-1-2項までが載せられております:

 

 1-1 哲学は思想ではない

 1-2 哲学は文学ではない

 1-3 哲学は人生論ではない

 1-4 哲学は宗教ではない

 

 エッそうなの!?と驚きの声が聞こえてくるような。またまた簡潔な節タイトルですが、しっかり書いていきたいと思いますので、どうぞよしなに。そしてやっぱり長いので、1-1-3項以降はまた次回の更新とさせていただきます。

 しかし、以上の節で挙げられるような「他の“文系的”所作」が事実上哲学と結びついたようなしかたで学ばれるということはおおいにありえます。たとえば中世において、宗教と哲学との関係とは、神の力能*1を示すのに、哲学的議論において用いられる論理が必要であったという事情によって《哲学は神学の侍女*2である》と称されるようなものでありましたし、神の存在証明は哲学者のたしなみでもありました(何を言ってるのか全然わからないと思うので、この背景の詳細はきゅーさんに直接聞いて!)。神学と宗教的(キリスト教的)信仰そのものとがいかような関わりを持つかはさておき、いかなる場合においても哲学と宗教とは完全に別物として語られうる、ということは嘘になります。このように、哲学と、私がこの節で「切っていこう」と目論んでいるような文系諸学とは切り離しきれない部分がある、というのも事実です。

 そして、このようにして切り離された諸学は、アカデミーにおいては当然「尊ばれるべき有意義なもの」です。のちの章にて詳しく扱いますが、哲学は物事の根っこを非常に精緻なしかたで語り出す(ことが要求される)学問です。しかし、だからといってそのことが、他の学問を浅いものであると蔑視するような理由にはならないわけです。私がこれから行うような「切る作業」は「こき下ろし作業」ではまったくない、ということはどうか理解していただけたらと思います。注意すべきは、これらの学問および思想と哲学とは「扱う対象」「思考法」「態度」といったところが微妙に違う、というところです。すなわち、「哲学的に考えるとはどういうことか」ということをよく見つめるためには「境界づけ」が必要であった、ということなのです。

 本章では、おもに「思考法」「態度」について多分に語られることとなります。こうした示唆をつうじて「哲学的に考えるしかた」とはどういうものか、ということを理解していただけたら幸いです。注釈も読んでほしいです。たぶんおもしろいし、理解の助けになると思うので。

1-1 哲学は思想ではない

 いやいや、それはないやろ。君らの学びの本分は基本的には言論であり、思弁であるわけだろ。そういったことの総体を、思想と呼ばずしてなんとする。それは理系のオレにだってわかるぞ…イヤッ!違うのです!本当に微妙にだけど。先述のとおり、多分に通ずるところもあるけどね。

 ここにおいて明らかにされるべきは、そもそも思想とはどういったものごとをさすのか、ということであるように思われます。そのようにして明らかにされた思想というものと、哲学的議論やその思考方法とを比較して、「ある思想を持っているということ」と「哲学するということ」とはこう違うんだな、と納得していただくことが、本節の狙いであるわけです。すなわち、ここでは一貫して「哲学的態度」の話がなされることになります。ああ、この手法のなんと分析哲学っぽいことか。これが「概念工学」を標榜するやつの書くことか。しかもけっきょく次章のテーマの「哲学をするとは」の話もフライングでやっちゃいそうじゃんかよ。いやあ、《ものごとをリニアに書き下す》っていうのはむずかしいね。ムリだね。

1-1-1 思想とは何か

 私はこうみえて本を読むのがあんまり好きではありません。いや全然好きではありませんね。よく何を言ってるのかわからなくなるし、目が疲れるしで、いいことありません。しかし、論文や英辞典を読まなきゃゼミ発表の資料がつくれませんし、あの子のハチャメチャドタバタな恋の結末は、最後のページまでたどり着かないとわからないわけですね。ああ、この論文や小説の“中身”だけが、データとして俺の脳に直接高速でインプットされてくれたら、読む労力が要らなくなるのになあ!

 さて、ここにおいて表現されている“中身”とはなんのことでしょうかしら。非常に単純なしかたで換言すれば、それは知識*3であると考えられます。そして、そのような知識の集積がある、ということが、《ある思想を持っている》ということであるように思われます。しかし、そのような解釈をとりますと、パソコンや辞書が思想家であるとしても許されることになってしまうわけですので、このためにはもっと別の条件が加わる必要があると考えられます。それってなんだろう。

 「選民思想」「末法思想」『思想 二〇一八年 第二号』…。これらの思想を持っている人は、どのような人たちなんでしょう。最後のはたぶん11月の下旬あたりに本屋に寄った人とかだと思うんですけども。《彼はそのマイノリティ的な出自から、強固な選民思想に染まるに至っていた》、《日本の平安時代においては、人々は、仏教の教えがすたり修行者が現れなくなるという末法の世が来る、ということを信じていた》…ふむふむ。

 ここにおいて現れるような《染まる》または《信じている》といった述語は、人と知識とのある関係を示しているように思われます。そして、この関係を取り結ぶことができるということこそが、知識を持った我々が、パソコンや辞書とは異なるものである、ということを端的に保証するようなものであると考えられます。では、この関係とはなんなのか?これらの述語は、思想について何ごとかを明らかにしているのか?はい、お答えしましょう。これらの述語によって語られていること、それは、その知識を《受け入れている》ということであります。さらに言ってしまえば、ある知識とは、それが我々に受け入れられている限りにおいて、我々を思想的な存在者たらしめるようなものであります。不遇な出自の彼は、神は最後の審判で自分たちの民族だけを善人として選び出す、という考えを受け入れている、ということは間違いないように思われますし、平安時代の人々は仏法の死という発想を受け入れていた、という記述は正しいでしょう。つまり、思想とは、ある知識について、それを我々が受容するかぎりにおいて、それが見受けられるようなものなのであります。

 つきつめまして、これを学術的な文脈において語るとするならば、「ある人が、ある思想を持っていること」とは「ある人が、ある命題を知識として受け入れていること」であるように思われます。我々がこうした《受け入れる》というスタンスをとることは、パソコンや辞書には不可能な状態であり、我々と知識との関係を規定するような、我々に固有の状態であるように思われます。そして、そのような関係こそ《我々はある思想を持っている》という命題によって説明されるものであるということです。

1-1-2 思想と哲学とのちがい

 さて、第1-1-1項にて示されたような思想的態度は「哲学するということ」とどのように対比されるのでありましょうか。ニーチェは言いました、「神は死んだ」と。この言葉に対して《ニーチェ永劫回帰*4という概念によって、人生は無意味なものであるという主張から始まるある種のニヒリズムを提唱し、この主張が、キリスト教的世界観をその基地に据えていた西欧近代的価値観のアンチテーゼとなり、そしてこれは、そののちに訪れる“神の死以後”*5を生きる西欧人の価値観を先取りしたものであった》という説明がなされ、みなさんはそのことを知りました。うんうん、納得した。ニーチェはこんなことを考えたわけだ。そしてその思想は、歴史の文脈においてこのように解釈されるということか。むしろ共感したまである。なんなら彼のいうことは、普遍的に正しいんじゃないか、今度誰かにニーチェについて聞かれたら、イイ感じに説明できるかもしれない…。しかし、こうした所作が(そして今後彼が他の人に対して行うとおぼしき所作が)哲学的な営みであるか、といったら、それは違うような気がします。彼の学習のしかたをひとことで形容するならば、それは次のようなものになるでしょう:無批判である。そして、このような態度は、哲学的態度と呼ぶにはふさわしくないように私には思われます。

 どうしてなのよ!彼はニーチェを真摯に理解し、それを我がものとしただろう。ニーチェが哲学者であるのなら、それを摂取した彼もまた、一人の哲学者になったといえるのではないか?いいえ、違うのでございますよ。彼は《ニーチェのような哲学者になった》わけではないのです。だって彼は、ニーチェの思想を“受け入れただけ”であり、決定的に大事なことである、《ニーチェのような問いを、彼よろしく悩み疑う》ということをしていないのですから!

 整理していきましょう。ここで私が伝えたかったことは、あるものごとについて、それを知り、そしてそれを受け入れている“だけ”なら、それは《ある思想を持っている》ということにすぎないのである、ということです。加えて言えば、思想的態度とは「他者の思索をできるだけ客観的に理解しようと努めること」であるといえます。一方で、哲学的態度の表れとは「ものごとを疑い、問いなおせるか」というところにあります。過去の哲学者に関する、ある知識を持っている“だけ”では、それは哲学を《している》ということにはなりません。哲学者の開示したカードを疑って問いなおすというところに、哲学の精神が宿ります。すなわち、《哲学をしている》とは《徹底的な懐疑のうちにある》ということです。何においても「それほんとなの?だってさ、こことここがこうおかしくないか…」と疑いを何度もかけ続け、そこで問われたことに対する答えは誰にも疑えない普遍的なものだろう、という領域にまで達することを目指すのが、哲学的な態度なのであります(じっさいにそのような“人類普遍の”回答を出すことができるわけではありません。いかなる哲学的帰結であろうとも批判され、そしてノックアウトされる可能性はあります。しかし、少なくとも自分がその「疑えないところ」まで悩みきってひとまず答えを出した、というところに、哲学の真髄があるように思われます)。このようなスタンスは、思想的態度たる「受け入れること」からは出てこないように思われます。ニーチェの言ったことがしかじかの点で納得できない、ニーチェに対する誰々の反論が、どうもニーチェの言ったことをつかんでいなさそうだ…。こうした疑問の鎖をつなぎ続けられることこそが、哲学的思考を持つために必要な条件であるのです。

 しかし、ただ「おかしいぞ!」と声を上げるだけでは、それはまったく疑問を持ったことになりません。どこがどのようにおかしいか、ということを、厳密な思考のうちに、言葉を尽くして語らねば──すなわち、私の疑問が“誰にでもわかるしかたで”語られていなければ──それは哲学的な営みではないのです。さしあたって、ニーチェの話は、次のようにいろんなしかたで疑われえます:まず、そのような「永劫回帰」は実際にありうるのか。ありえたとして、なぜ我々の生が無意味なものになるのか。etc…

 しかし、こうした疑いも、私がどこかからとってきたものです。この限りにおいて、今は私とて、哲学の営みをしているとはいえません。このように、私が「誰かの問い」を扱うときにおいて、哲学の態度は、私の思考のどのようなところに表れるといえるのでしょうか。それは、このような問いを参照しながら、私も一緒に心からそれを「おかしいぞ!?」と問いなおす、というところです。

 たしかに、私独自の問いを投げかけるしかたで彼を疑う、というのは、じつにベーシックな哲学の態度です。なんの前情報もなく、己の直感から、「それは論理がつながってなくない?」「そんな仮定ありえなくない?」と、じつに素朴に、かつ強情に問いを立て続けること、このような問いを“立てずにはいられない”態度でいることこそが、哲学的に考えるということであります。

 しかし、私的な哲学的思索にとどまらず、こと研究という名目において、「私独自の素朴な問い」を立てるのはけっこう難しい。なぜならば、ことニーチェに関していえば、彼を研究の対象にしている人はプロ・アマ*6を問わず世界中におり、そのような素朴な問いは、ほぼ出しつくされてしまっていると考えられるからです。

 では、そうした人たちの立てた問いと、自分の立てた問いとが「かぶってはいけないのか」といいましたら、そうではありません。アカデミーにいる以上、かぶらないほうが難しい話です。もし、問いがかぶった場合、あるいは人の問い立てを見つけて、自分もそうだと思った場合、どうすればよいのか。そういうときは、そういった人々と、一緒に問いなおせばよいのです。なぜならば、たとえ問いが同じでも、出た答えは、他の人と異なる場合があるからです。その成果は論文として公表されます。そして、どちらの主張が説得的であるかということを、他の研究者の目に託すことができるのです。また、出た答えが同じであっても、それを倒そうとする言説はきっと世界中にあります。それらを精読し、やはり自分の論にはおかしいところがある、いや、自分と同じ答えを出した彼の論証を用いれば批判を回避できる、などなど、問いの連鎖を止めないしかたはいくらでもあります。

 

 …本節項のまとめをしましょう。ある人の思索や知識といったものは、それを我々が客観的に理解し、それを受け入れるという態度をとるかぎりにおいて思想的なものとなる。しかし、思索や知識に対するこのような態度は、無批判的なものである。哲学的態度とは、他者の思索を疑い、問いなおすところにある。ゆえに、哲学とは思想ではない。

 次回、第1-1-3項より更新いたします。理系のみなさんへの徹底的な言い訳を企てております。よろしくね!

 

*1:りきのう。英powerまたはpotential。後者のほうが意味的には近いように思われる。なんか潜在的な力やいつでも発揮可能な能力、みたいな感じだと思っておいてください。

*2:英theologiae ancilla。中世スコラ哲学においてぶっ放たれた語。哲学の問題とか議論って結構、最後はやっぱり原因不明、人間が答えを出せない懐疑になっちゃう、みたいなことになる。じゃあその原因に神を持ってきて、それを回答にしちゃおう!この疑いは神ならその全能性でこういうふうにクリアできると考えちゃおう!という感じで解決するしかたがあったわけだが、これは最終的に神のその全能性や威光を讃える結果となっている、というように読むことができる。この点で、哲学って神を支えるべくそれに仕えるようなポジションのものだよね、と考えられていってこの言葉が出たわけだ。う〜ん、まあわからんでもないが…。神の存在証明も含めて、神の威光を讃えるに至る哲学的論証はいろいろある。きゅーさんに聞いたり、調べたりしてみようね。

*3:ここをこんなにサクッと換言するのは学生のはしくれとしては非常にこわい。こわいのでちゃんと言っておくべきだろう。まず、伝統的な知識概念とは、おおよそ次のようなものである。ある人Aが命題pを知識として持っているということは、(1) Aがpを信じており、(2) pが真であり、(3) pを信じることにおいてAが正当化されている、というものである。つまり、Aくんがpを信じている、pが実際に成り立っている、Aくんがpを信じていても変な人扱いされない、ということが、pの知識性を保証する、ということである。ここにおいて言及されている“中身”というものが、必ずしもある命題の形をとっているかということはわからないが、これが知識というものに包含されることを認めてよいと判断できる程度には、伝統的な知識概念を逸脱したものではないだろう。どうなんだろ。

*4:独die ewige Wiederkunft。時間が無限の伸び広がりを持っているとする。そうすると、「ある宇宙の始まりと終わり①」「ある宇宙の始まりと終わり②」…みたいな感じで、この「ナンバリング可能な宇宙」がすでに何個も何個も始まったり終わったりしていると仮定しても矛盾が生じないことになる(どうだかね。ここで無限とか、ひるがえって有限とかいう言葉がどのように使われているかということは、当然疑われてしかるべきだ。宇宙の始まりと終わりとについては、それぞれビッグバンと、ビッグクランチを含めていろいろある「宇宙の終焉」のいずれかのものとである、というふうに理解していただいてもさしあたり問題はなかろう。重要なのは「時間」です)。そうすると、もしかしたらこの時間のなかで「その始まりから終わりまで、何から何までまったく同じできごとが起きる宇宙」というものがいくつも存在するかもしれない(たとえば無限に桁が続く円周率πの少数展開の数列のなかに、「123456」の決まった6桁が並んでいる箇所はいくつもあるだろう、みたいなノリです)。それならば、今生きてるオレの宇宙とも、まったく同じように始まり、すべてのできごとが同じになって終わっていく宇宙が“過去”無限回現れては消えていった、ということがあるかもしれない…えっ?じゃあオレの人生って、意味なくね?同じのがあったんでしょ?そこではオレとおんなじオレが現れて、オレと寸分たがわずまったく同じ人生を送り、そのオレの死後5000兆年とか経って、宇宙ごと消えたんでしょ?そしてオレが今を生きてるこの宇宙も、そのように終わっていき、それとまた一致するような「宇宙③」「宇宙④」…みたいなのがこの時間内において出てくる、というしかたで繰り返されてくんでしょ?じゃあオレの人生はなんなの?…このように(どのようにだ)、おんなじ宇宙が繰り返される無意味さを(そしてそのおそろしさを)、ニーチェは「永劫回帰(または永遠回帰)」と呼んだのだ。人生について「この大事なときは今しかないからみんな頑張ろ!そしたら絶対報われるから!」的な、文化祭前の陽キャみたいな価値観を敷いてた当時の西欧のキリスト教的世界観に反旗を翻したんですね。というか、ニーチェがマジ悩みしたところ結果的にそうなっただけなんだろうと思うけども。

 理系のみなさんに申し上げておきますと、これは多次元宇宙の話とか平行世界論の話とかとはちょっとちがうように思われます。そのように理解することも可能であるように思われるけども、ポイントとして見てほしいのは《その開始から終了までのすべての分子運動が我々の宇宙と合同であるような別の宇宙の存在は、理論上認められる》ということではなくて、「そんな宇宙があったら、オレのこの唯一だと思ってた人生は無意味なもんじゃねえか!ふざけんな!」と心の底から問うところです。ニーチェがこれをふざけんなと思ったかは知らないんですけども。興味のある方は、彼の『ツァラツストラはこう語った』を読んでみてね…いや、うかつに勧めるのはやめよう。これはすごく難しい本です。

*5:オレたちは神の被造物である。そしてオレたち人間種だけがそのことを自覚できている。だからオレたちは特別である。だからオレたちには、信仰と善行をつめば、真なる世界である神の世界に行ける可能性が開かれている。だからみんながんばろうね!…これが西欧近代の「カトリシズム」である。この価値観の効力は、人々の中に善や道徳や法などの社会的諸価値を構築し、現実社会における弱者の怨嗟を和らげ、そして現世的な不平等を暗黙裡に正当化するところにあった。貧しかったり能力や身分が低かったりした人々が「我々弱者は彼岸で神に救ってもらえる!」と思い込むことは、為政者や上位のキリスト教関係者にとってはヒッジョ〜に都合がよかったのだ。ニーチェはこのような価値観を、本当は虚無的であるような我々の生にかぶさる“覆い”みたいなものだと考えた。救ってくれる神なんかウソッパチだ、神ありきの善行なんかクソくらえだ、おまえらのほほんと生きてんじゃねえよ。こうした主張を込めて「神は死んだ」と言ったわけだ。この考えは、神ありきの我々ではなく「現実存在」として今まさにいる我々を認めようじゃないか、という実存主義の考え方につながっていく。そして現代西欧において、この考え方が広まっていくわけだね。ニーチェがなんでこんな考えに至ったのかは、前の注を見てください。

*6:ここにおいては職業研究者かそうでないかを区別してこう呼んでいる。